コラム一覧

~①東通工 (現在:ソニー) の縁~


=①東通工 (現在:ソニー) の縁=


昭和30年代、小型ラジオの普及化に伴い
二代目 安田一郎は、真空管に取って代わる【トランジスタ】の出現に着目した。


そこで、トランジスタの製造において
当時、関西の真空管納入問屋M無線さんに相談。



神戸工業の江崎玲於奈氏(のちのノーベル賞授賞者)を紹介して頂き、江崎氏を東京に招聘し弊社もトランジスタの製造を試みた。

......しかし、
製造特許の関係から、弊社のトランジスタは頓挫してしまった。


ちょうど当時、東通工(現:ソニー)もトランジスタの製造で不具合品が多発し、困っていた。


そこで、その改善のため弊社に江崎氏を東通工へと
吉田進氏(後アイワ会長)と大越明男氏(在職中開発部一筋)がお連れになった。



東通工へ移られ江崎氏の名刺



これが、【弊社とソニーの縁】のはじまりだった。


「お陰で飛躍的に歩留が改善されたことにより危機を逃れ、今のソニーが在る」と、後日大越明男氏からお聞きした。



そして、このご縁でソニーが製造を海外展開するまでの間、トリニトロンTVをはじめMD等・・・
ソニー製品のあらゆるカテゴリに渡り、弊社は部品事業部を通じてデバイス品の製作加工のお取引頂いた。


ソニー株式会社の各時代トップの名刺


~ソニーと取引した製造の一部~

【ブラウン管TV】
・テレビブラウン管用ファンネルボタン(陰極)
・ステム等キー部品

【オーディオ機器】
・コンポーネントステレオ用表示極小型電球

【ラジオ】
・クロックラジオ(A-10アサ)

【映像機器】
・ベータカム用ハーネス

【ウォークマン】
(WM-2)用モーターハーネス
・内部配線材(極細電線)

【ロボットベット】
・アイボ駆動用ハーネス
・内部配線材(極細電線)

【CD/MD】
・光学ピック用Assy部品等々を形に創り上げてきた。


(しかしスピーカー保護素子は、唯一失敗してしまいました。。。)




先代との縁が深かった第一開発部部長大越明男氏(ソニー退職時盛田昭夫氏と)



【次回コラム】先代との縁が深かった、大越氏との縁について




※このコラムは、BESTO株式会社の歴史において、私見(現代表の)も含まれております。
本文内容に差し支えのある方がいましたら、
恐れ入りますが、弊社までご連絡頂けますと幸いです。

2019年05月06日

会社コラムはじめました


=会社コラムはじめました=


このページでは、弊社の過去や現在についてご紹介いたします。

他社様とのご縁のおかげ様で、歴史ある今のBESTOがあります…

その大切なエピソードをここに記し、
この先も素敵なご縁へと繋げ、BESTOはこれからも精進してまいります。

※このコラムは、BESTO株式会社の歴史において私見(現代表の)も含まれております。
本文内容に差し支えのある方がいましたら
恐れ入りますが、弊社までご連絡頂けますと幸いです。

それでは~BESTOな縁~是非、ご覧くださいませ。


2019年05月05日

~②ソニー第一開発部 部長 大越明男氏との縁(前編)~


=②ソニー第一開発部部長 大越明男氏との縁(前編)=

~弊社三代目と大越氏の縁について~


一本目は『先代と大越氏との縁について』 記したいと思います。


ソニー第一開発部大越明男氏は、早稲田大学時代に博士論文にて
『 テレビブラウンの開発(トリニトロンカラーテレビ) 』について
発表されていました。

↳大越氏による博士論文
「カラー受像管の色選別機構と電子ビーム系に関する研究」


↳大越氏より謹呈された時のお手紙



大越氏が吉田進氏・宮岡千里氏と共に
試行錯誤の結果生み出された製品がまさに
『 ソニー独自方式のワンガンスリービームブラウン管 』でした。


弊社はその研究開発から量産までの
【ガラス管と金属棒融着(膨張係数)の研究加工】に関わりました。



初代トリニトロンKV-1310は1968年に発売されましたが、

開発に至るまでに発行された『ステム』の試作図面枚数からも
大越氏らのご苦労が想像されます。

↳S37年 大越氏発行図面(一部)

↳S42年 宮岡氏発行図面(一部)



大越氏は、弊社三代目(以下、先代)の
「物への閃きと人心掌握に優れていた人柄」を認めて下さり、
『 軽薄短小の時代』の先駆けとして先代と切磋琢磨しこの時代を作り上げてこられました。


弊社では豆電球(10φ)から極小型電球(3~4φ)へと更に小型化に磨きを上げ、
口金をリード線へガラス管・フィラメントの仕様についても、
先のニーズ(軽薄短小時代)に合わせて次々と変えていきました。



当時、電球に関しては先代やベテランの職人で賄っていたが需要が大幅に増えたため数多くの外注業者が受け持つようになり、
ステムに関しては若手職人さんを育て新たな技術の教育と発展に努めることで、
先代はそれぞれを掌握して、幅広く顧客のニーズに応えていたようです。


後に、弊社が電子デバイス部品事業部で様々な新製品の試作・量産を受注出来たのも、
第一開発部部長大越明男氏と先代の御蔭であると思っております。



【次回】「後編:私(現代表)と大越氏との縁について」お送りいたします。

 

2019年06月25日

~②ソニー第一開発部 部長 大越明男氏との縁(後編)~

 

=②ソニー第一開発部部長 大越明男氏との縁(後編)=

~現代表(私)と大越氏の縁について~



前編に続いて、今回は後編『現代表(私)と大越氏について』を記したいと思います。



1. 初めての出会い~アメリカの風

1962年、大越氏がブラウン管(クロマトロン)技術取得のためアメリカニューヨークへ発ちました。私が大越氏に初めてお会いしたのはその時です。

先代と羽田空港へ見送りに行ったのは夕暮れで飛び立った機影が印象的でした。
その後頂いたお土産は、当時日本には未だなかった鮮やかで綺麗な青色をしたパーカーの万年筆でした。(当時12歳)



2.電子管製造体験~量産での苦労

1969年の夏、私が大学在学中に生産実習において2か月間、
大越氏と吉田工場長のお取計らいでソニー大崎工場にてブラウン管の製造ラインに入りました。

作業内は蒸し暑い炉での管前面パーメック樹脂で補強と管の消磁。

世間ではブラウン管13型が主力で、先駆けとして新規投入管16型を製造しており、私はまだ世に出回る前の『補強ガラス箱に印字された「16型表示マーク」』の切り取り作業を命じられました。

また、大崎消防署の危険物取扱いと保管管理の監査対応に就いていたことは今でも鮮明に記憶しています(当時19歳)



3.大越氏のご自宅にて~大越氏のモノへの愛着と大切心

大越氏のご自宅に招待していただいたことがありました。
2階一部屋は研究作業室になっていて、半田が付いたカーボン抵抗(使用済みの通常廃棄してしまう部品)などが缶箱に沢山に…。
その多さにビックリしたのと、小部品の一つ一つを大切にされていたことが忘れられません。

大越氏の開発における、いざという時の代用品の知恵や閃きは、
こうした既存の物や例え廃棄する部品でさえも大切にし、
留めておくことで生み出されていたのかもしれません。



4.発想の閃き~次世代のデバイスへ繋がる

『ブラウン管ステム』と『MD光学ピックアップ貫通コンデンサーAssy』には共通点があります。

大越氏らが開発したブラウン管ステムの「大気」と「真空域」を繋ぐ、
つまり異空間を結ぶデバイスからヒントを得て、
「生活周波数域」と「高周波帯域」を繋ぐ仕組みで製造することで貫通コンデンサーAssyは生まれました。

↳ブラウン管電子銃:ステム

 

貫通コンデンサーAssy


5.工夫と応用~製品化への早道

まだインターネットが無い頃、大越氏は試作品つくりで必要になった部品を使えそうな素材を探し出し、手加工で直しその場で結果を出しました。

このようなものの応用は後に、『CD光学ピックアップ用のリッツ線加工』の際生じた問題を早期に解決しました。

当時の課題は、極細のウレタン被膜銅線への打痕の対策でした。

研究試作時は手切り加工も、量産で数量が増えたため手作業ではなく機械を投入。
しかし、その機械の送り機構が「金属ロール」だったので、結果即「打痕」と言う不良に陥りました。

そこで私は大越氏の代用品の姿勢を思い出し社内を見渡したところ、
「電球真空排気に使用していた「生ゴムホース」を金属ロールに被せたらどうだろう…」と閃いた。
結果、切断寸法のバラツキもなく・打痕も解消され、後に月間200万本超/品種の納入へと拡がりました。


現在、大越氏は埼玉県蓮田の長松寺に、奥様日出代さんと一緒に休まれています。



今の世の中は情報にしても商品にしても、何でも簡単に手に入るようになりました。

しかし、正解がないものに対してや問題を目の当たりにした時こそ、

大越氏のように『手元にあるものの大切さに日頃から目を向けること』が、

次に繋がる着実で大切な姿勢である事を、私は学びました。


2019年06月27日